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いいたて村までい企業組合

▼郵便番号
960-1801
▼住所
福島県相馬郡飯舘村草野字大師堂65
▼電話
0244-68-2888
▼FAX
0244-68-2889
▼営業時間
月曜~金曜 8:30~17:00
▼休業日
土・日・祝日、夏季・年末年始
▼URL
http://www.iitate-madei.com
▼Mail
info@iitate-madei.com


いいたて村までい企業組合が行ってきた活動と村のイベントをご報告いたします。
これからも田舎暮らしへの支援や飯舘村の活性化を目指した活動を行っていきます。

■2011年度活動報告
▼「移住相談」終了に寄せて【3月31日(土)】
 飯舘村は原子力災害による「計画的避難区域」に設定され、全村民が余儀なく避難するという、「あってはならない事故」に見舞われました。
何百年に1度の大地震、想定外の津波、考えもしなかった原発避難・・・

平成22年9月の飯舘村では、地震の震度6強を想定した総合防災訓練(集団避難、初期消火訓練、食糧供給訓練)を実施しておりました。 (その様子は飯舘村役場・いいたて広報10月号(№563)に掲載されています。)
防災意識を高め、集団避難、災害時用伝言ダイヤルなどの説明会を受けておりましたが、実際の3.11大震災には、飯舘村は震度6弱で電気が消え、電話が通じず、携帯電話までも・・・
ライフラインが途切れ、2日間に亘り、自らの情報(電池付ラジオ、カーラジオ等)と、組長達の伝令や広報車で世の中の惨事を知り、日本は、地球はどうなってしまうのか?とても不安でした。
しかも、原発災害による集団避難(希望者のみ)は震災から一週間後でした。

移住相談での村のPRはいつも、「阿武隈山系は高地で寒いけれども、地盤がしっかりしているから、地震にも強い」、「ほとんどが農家で自給自足の先輩も多い」などが売り言葉でした。

飯舘村を案内すると、豊かな大自然と、清水や山菜などが移住者を待ち受け、車もあまり通らない、人とすれ違う事も少ない、静かな時間と、のんびりした田園風景が魅力でした。

また「移住銀座」と呼ばれる地域で、自分で山を切り開いて畑を耕し、家を建て、子孫を増やして、といった移住者が多く住んでおり、村民となって一緒に活動して移住希望者を快く受け入れしていました。
「両隣を併せた3件は親戚以上の付き合い」という地域の繋がり、「までいライフ」というスローライフ宣言を掲げて頑張ってきた・・・

その矢先の多重災害・・・地震だけなら、ほぼ変わらぬ風景だったはず。
無味、無臭、無色の危険物質が舞い降り・・・
1年が経ち何も変わっていない風景がまた訪れます。
花が咲き、ウグイスがさえずり、小川が静かに流れ出す、飯舘村の風景。

昔から自然の脅威に負けなかったから、旧石器時代からの石器や縄文遺跡が残り、農耕集落が存在していた証があった。
それが、人間が創ってしまった巨大エネルギー物質に負け、2011年で集落崩壊してしまいました。

「飯舘村」になってからの歴史は55年と浅いけれども、そこに生きる飯舘村民の多くは、先祖代々の民家で、長い長い歴史があったのだ・・・
二年前に「観光資源調査」を実施し、こんな惨事でもなければ、改めてその資料を見て、飯舘村を振り返る事も、見つめなおす事もなかったかもしれません。

少しずつですが、前を向いて、未来に向けて、復興あるのみ!!
と言えども「移住相談」は終了しますが、「飯舘村の宝物」はまだまだ沢山、発掘出来そうですので、今後もご紹介していきたいと思います。

今まで、当組合にお越し頂いた移住希望者の皆々様方、沢山のアドバイスを頂いた関係者の方々に、重ね重ね厚く御礼申し上げますと共に、今後とも飯舘村の復興・発展を御支援下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。
本当に、有難うございました。
2012年(平成24年)3月31日

▼引越し作業 【3月21日(土)~25日(水)】
  年度末になり、各所、慌しい時期ですが、飯舘村の幼稚園と小学校の仮設校舎が完成し、机・イス・備品等を運び出す作業をお手伝いしました。

▼5月まで移住していた方からのお手紙 【1月4日(木)】
 平成22年8月~平成23年5月まで飯舘村の貸家に住んでいた移住者のご紹介をさせて頂きます。

ご夫婦で飯舘村においでになり、交通の不便な所にも関わらず、飯舘村での「までいな田舎暮らし」を過ごす事を夢見て、半年後に大震災及び原発災害に遭い、やむなく飯舘村を退去せざるを得なくなってしまいました。
その後、飯舘村の事を心配して頂き、情報提供しておりましたが、NHKテレビの「課外授業ようこそ先輩 心ゆったりふるさとの銭湯絵中島盛夫 12/10放送」で飯舘村の小学6年生の様子をご覧頂いたメッセージがありました。
コメントをサイトから転載させていただきます。

スタッフブログ「課外授業ようこそ先輩 こころゆったりふるさとの銭湯絵中島盛夫」12/10放送/テレコムスタッフ【サイトはこちら】
「飯舘村の子どもたちの姿、笑顔。

自分たちのふるさとへのおもい、かつて暮らしていた当たり前の生活がどんなに大切だったか、
いっしょにあそんだともだちのこと 今はどこにいるかわからない。 また一緒に遊びたい。
牛がいたあたりの風景 きのこがあそこに、ここに
中学校のそばの野球場
草野小学校のこどもたちの描く校庭の桜、
草原で遊ぶイメージ
”みんなみんな大切なおもいで。忘れないでいようね。これからの元気につなげていこうね。わたしたちもがんばれるよ。ありがとう。”そう声をかけ ずにはいられませんでした。昨年の六月から草野小学校のそばに家を借りて、何度も行き来して、2011年の春を楽しみにまっていた私たちにとって、この絵 はあまりになつかしく、せつなく涙がでました。私たちにとって忘れられない飯舘村がここにあります。今日課外授業を見て、つい昨日のような飯舘村を目に し、私とつれあいは、中島さんと一緒に泣いてしまいました。子どもたちの笑顔、元気、せつないおもいに泣けてきました。川俣の銭湯に行って、子どもたちの 絵にあってこようとおもいます。

▼新年のご挨拶 【1月4日(水)】
新年明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い申し上げます。

昨年は、東日本大震災と原発災害に遭い、人生においても歴史的にも残る出来事を体験し、やむなく避難生活を送る事になってしまいましたが、今年は復興に向けての新事業を展開し、新たな希望を持って活動していく所存であります。

しかしながら、活動していく上で一つ残念なお知らせがあります。 「移住相談窓口」を平成21年4月より開設しておりましたが、平成24年3月31日を以って終了させて頂きます。

当組合は平成18年に発足して以来、当初から「定住促進・移住交流事業」を活動の一環として事業を行ってきましたが、飯舘村の現状は、未だ止まぬ原発災害による放射能汚染区域であり、国の除染作業も進む中ではありますが、「計画的避難区域」の状態がしばらく続くため、「移住・交流の受入れ」が出来ずにいます。
今年の3月までは他県等へ避難された移住者との連絡調整等をさせていただきますが、4月以降は復興に向けた新たな取組を行っていく為、「定住促進事業、田舎暮らし交流事業」は、飯舘村民が帰宅し、田畑を整地し、再び農村として復活するまでは、事業をお休みさせていただきます。  4月以降のお問い合わせは「飯舘村役場・飯野出張所」へお願い致します。

いつかきっと、子どもを、若者を、都市部住民を飯舘村へ呼び戻せるように復興していきます。

▼年末年始の組合事務所閉所のお知らせ【12月29日(木)~平成24年1月3日(火)】
年末年始の組合事務所を12月29日(木)~平成24年1月3日(火)まで閉所致します。

今年は色々な出来事がありましたが、大変お世話になりました。皆さんからの暖かいお言葉、励ましを決して忘れません。

来年も事業継続して頑張っていきますので、引き続き宜しくお願い致します。

▼2011年も残りわずか・・・12/11(大震災から9ヶ月)【12月11日(日)】
11.30の夕焼け空

「今年も皆が健康で、良い一年になりますように」
と、いつものように初詣をしたお正月から70日後に「東日本大震災」が起こりました。

以前から宮城沖地震は近い未来に予測され、ハザードマップなども作成されていましたが、まさか?これほどまでに最悪の事態になるとは誰もが思いもしませんでした。

「飯舘村は原発事故さえ起きなければ、災害も少なく普通の生活が出来た」と、村民の誰もが口にし、「何故、風が、雲が、放射能が北西に飛んできたのか?飯舘村に降ってきたのか?」と、天気を恨み、「誰のせいでこんな(避難)生活を送らなければいけないのか?」と、人を憎むようになってしまいました。
「までい」の精神でお互いを助け合い、村を築き、信頼を築いてきたのに、人が散れ散れになり、心まで離れてしまいそうです。

今年は立村55周年の節目でしたが、飯舘村では表彰式典のみ開催されたようです。
5年前・・・平成18年(2006年)に立村50周年記念事業の中に、「十年後に配達される手紙」がありました。この年は組合発足の年でもありました。
その頃には飯舘村にも未来が、夢や希望がありました。
十年後の自分宛に、家族に、大切な人に手紙を書きました。
予定では平成28年(2016年)に届く?・・・あと5年後です。
5年後の飯舘村が、田畑を手入れできる状態になると信じています。

「十年一昔」・・・世の中の移り変わりが激しいことのたとえ。          十年という年月を区切りとして、それ以前は昔のように思われるということ。

十年経ったら悲しい出来事も昔話になってしまいます。
皆さんもこれからでもいいので十年後の未来へ伝える事や、一年の締めくくりに記録を残して下さい。
決して忘れないように、未来へ、子孫へ伝えていってください。

(追伸) 2011.3.11 私の記録
その日は、「移住相談」の移住者が、飯舘村で生活する為の最終説明を当組合で行い、役場へ各種申請のため向かって、無事終了しました、との報告を受けた数分後の出来事でした。

給湯室で片づけをしていた所へ、突然の地響きと揺れが起こり、急いでファンヒーターを止めに事務室へ戻ろうとしましたが、周りがガラス窓で囲まれていた為、今にも割れそうなガラスの音に、腰が抜けたようになり、慌てて机の下へ潜り込みました。 2度目の強い揺れで、電気が全て停電になってしまい、外へ出ようにも出られない状態が続き、その数分がとても長く感じられました。
幸いにして、手元の携帯電話のワンセグでテレビを見られ、世の中で一体何が起きたのか?どのような状態かを確認できました。

「マグニチュード9 宮城沖地震だ!」

当時、事務所の隣では書道教室も行われており、書道の先生が小学生達を誘導し、建物の外に逃げていたので、やっと収まりかけた所で私も外へ飛び出し、皆に地震の状況を伝え、しかしなかなか止まない余震が繰り返し起こり、外にずっといても仕方がない、気圧の変化で雷や、雪まで飛んできたという事で、地震が静かになる度に子供達に帰り支度をさせ、組合事務所もそのまま閉めることにしました。

私の家は築100年程(?)の古民家で、茅葺から瓦にしており2階を増築してあったので、もう倒れているか?と心配で急いで帰りました。在宅介護の90歳になる祖母が1人でいたからです。
家の中の揺れは、家ごとしなるように揺れていましたが、何とか建物は無事でした。

中学生の姪が、今日は運良く(というべきか・・・)卒業式だったので、午前中で終わって帰っていました。
祖母に何枚も毛布をかけて、2人で身を寄せ合っていました。
また強い地震が起こるか判らないので、祖母を中学生の姪と連れ出し、とりあえず車に乗り、建物が倒れない場所へ移動しました。

道路の脇に車を止めていると、車が次々に同じ方向へ向かっていました。(おそらく小学校へ子供を迎え)
消防車も緊急時に備えてか?サイレンを鳴らし、出動していました。
みんながパニックになって走っている様、電柱がしきりに揺れる様をボーッと見つめ、このままどうなってしまうのだろうという思いで、1時間ほど、車に乗って地震の情報を聞いていました。

しかし、飯舘村は停電したまま、闇に包まれてしまう。
少しずつ地震が静かになったため、家へ戻り、割れた食器棚のコップを片付け、懐中電灯やロウソクを探して、寒いので掘りゴタツに練炭を入れ、あまり使用していなかった石油ストーブ(上にヤカンを置けるタイプ)を奥から出してきて暖を取りました。
ガスも何とか地震を気にしながら使えました。いつでも外へ飛び出せるように下炉(玄関に近い部屋)で寝ていました。それから集団避難までは同じ生活でした。

その間に日本が、福島が、飯舘村が大変な事態になっていたとは・・・。

「不幸中の幸い」だったのは水道が停電のため、浄水場が機能しなくなるので水を汲み置きしろ、との案内があった事、米や大根、白菜など越冬野菜を外では凍みてしまうので台所に保存しておいた事、それが内部被曝せずにすんだ、と後で思いました。
また、テレビが見れるようになってから原発災害の被曝を防ぐ「外出は控える、家の中でもマスクをする、洗い流す等」をきちんと守っており、スクリーニングや様々な被曝検査も受けました。
すべて「ただちに体に影響を及ぼす値ではない」でした。

今も仮設住宅や制限のある生活で、窮屈な思いで毎日を過ごしています。
それでも、こんな時に思うこと・・・
「3.11までの平凡な生活が毎日身に沁みて大切に感じ、次々に訪れる皆さんからの心温まるメッセージや支援も有難く受け入れ・・・もし他の誰かが次に大変な目に遭った時には、そっと支えてあげたい」

皆さん一緒に元気になりましょう!!
毎日、笑顔でいるのはなかなか難しいけれど、時々泣いて、また昔のように笑い合いましょう。

2012年の初詣には「今年こそ良い一年になんて欲張らないから、毎日が平凡な普通の生活に戻れますように、これ以上悪いことは決して起きませんように」と、お祈りします。

▼東日本大震災から8ヶ月が経ちました【11月11日(金)】
朝夕の寒さが日々厳しくなる飯舘村も紅葉が少しずつ色あせ、やがて真っ白な世界に包まれます。

・・・全て真っ白に、現実でなく夢であればいいのに・・・語ると口々にそんな言葉が聞こえます。

除染計画はモデル地区としてまず飯舘村草野地区から始まります。

草野地区は村営住宅もあり、村内で一番多い世帯数(平成23年3月で約260世帯)の地区で、県道12号線沿いに官公署、公共施設、金融機関、学校、企業も多く立ち並ぶ、産業の中心部でもある地区です。(役場は老朽化により平成6年にセンター地区へ移転しました。)放射性物質のモニタリング数値も現在では毎時3~4マイクロシーベルトと、飯舘村役場周辺よりはやや高い数値です。

忘れもしない3月12日の夜、県道12号線は双葉郡からの避難車輌で数珠繋ぎとなりました。飯舘村民は当時停電中で、情報も判らず一体何事が起こったのか?と思っていたと、あとで聞きました。まさか、ここまで原発災害が影響するとは、誰もが考えていませんでした。

その福島第一、第二原発の原子炉全ての廃炉を福島県議会が決めた事に、一安心するとともに、次のステップを県民みんなで考えていかなければいけません。

11月20日(日)は福島県議会議員一般選挙投票日です。
県民の皆さん、福島県の未来の為に必ず投票しましょう。

今年は遠隔地に避難されている方は、避難先の市町村で不在者投票をする事が出来ます。
県外に避難されている方は、事前に避難先の市町村の選挙管理委員会へお問い合わせ下さい。

▼大震災から7ヶ月【10月11日(火)】
  度重なる台風の被害によって亡くなられた方々の御冥福をお祈りするとともに、被災された皆さんに、心からお見舞いを申し上げます。
本当に天災にはなす術がないというしかありません。
台風による飯舘村での被害はほとんどなく、報道で見る辛い光景は本当に実際に起きている事なのか?
自分達も避難生活を送っているのに、心配してしまいます。
早く復興出来る事を祈るばかりです。

お月見もお彼岸も終わり、すっかり秋が深まって飯舘村も紅葉シーズン到来です。
吾妻山にも早すぎる初冠雪の便りが届き、これから紅葉狩りの観光で盛り上がる福島の山々も驚いた事でしょう。
3.11大震災の日も寒かった…まだ若葉も出ない、春彼岸前の出来事でした。

そしてまた、寒い季節がやってきます。飯舘村の冬はとても長く感じられます。
村民の皆さんも長引く避難生活になりますが、今年の冬はいつもより暖かな地域で暮らしているので、厳しい寒さを忘れてしまいそうですね。
県内でも有数の、氷点下の最低気温が報じられる飯舘村ですが、その厳しい寒さが好きで暮らしている方々もいます。凍み餅や凍み大根の食文化が出来たのも寒いところでないと上手く凍みないそうです。今年はそんな風景もお休みです。

除染計画も早い結果が出ることを願うばかりです。
本当に早く、暖かい春が、未来への夜明けが、心地よい高原の春風とともに飯舘村にやってくるといいですね。

◎4月以降、横ばいの放射線モニタリング数値(文部科学省ホームページ) 【こちら
▽2007年の稲刈り風景

▼東日本大震災から半年・・・【8月31日(水)】
季節は早春から早や半年が経ち、飯舘村は涼しい秋に変わってしまいました。

 カレンダーの9.11には「二百二十日」と記されていますが、秋の季語であり、「農家の三大厄日」といわれ、その日が台風などなく無事にすめば、その年が豊作になるとのこと。
黄金色の田園風景が10月には見られるはずの飯舘村でしたが、今年の田んぼでは?
 「放射能除去実験」の為に、某大学や関係機関のアドバルーンや、大型クレーン等が出没し、固化剤で農地を固めたり、剥ぎ取ったりと、様々な活動をしている様です。
「国挙げての除染作業」であり、飯舘村では
  かつてない、技術者による国家プロジェクトが行われています。

 「緊急時避難区域」の南相馬市でも、学校の校庭や花壇、砂利の駐車場まで全て除染作業を行っており、また田園には、沢山の黄金色の「稲穂」ではなく、「ひまわり」が一面に咲いていました。
農家の方には申し訳ないのですが、本当に美しい田園風景でした。
1本1本、上を向いて輝いており、私達も早くそんな風に太陽を見上げて輝きたい、そう思いました。

 しかし、現実は故郷を離れての、仮設住宅や街中での借家生活です。
村民の方も「村の様子や情報が入ってこない」、「解釈が違って話が伝わる」等、ばらばらになったネットワークを集約するのも一苦労のようです。

 そんな時にまた震度5近くの地震も発生しております。
屋根瓦の壊れた家屋や、避難先の仮設住宅までも雨漏りし、不安のない所に越したはずが…また、些細な事ですが、雨が降るたび、台風が来るたびに不安に悩まされ続けています。
本当に「いつまで?」の避難生活なのでしょうか?
飯舘村では11月を過ぎると、初雪の便りも出てきますので、このままではすぐに新年になってしまいそうです。

 国外では、サッカーの野次で「ふくしま、ふくしま」の連呼のニュースに驚きました。
本当に悲しみと、ただ、ただ、情けない想いでした。「私達は被害者」とばかり思っていたからでしょう。
「ふくしま」が、「日本」が、海外にも「放射能物質」を振りまいた、等のバッシングに愕然としました。

 いつまでも、義援や応援に頼ってばかりではいけない、人が起こした惨事は、人が知恵を集めて解決するしかない。
福島から、飯舘村から、早急な「解決策」と「平和」を発信していかなければならない、と強く感じました。

▼震災から5ヶ月 【8月11日(木)】
 お盆を迎える時期になりましたが、東北地方の田舎に帰省する親戚の方々も、今年の夏は寂しい想いでいらっしゃると思います。
「計画的避難区域」の飯舘村。
  政府のニュースレターでは、「住民の一時的な立入りや、町村により事業継続が認められた事業所での勤務のための立入りを除き、原則として立入りは認められません。」となっています。
  また、「不要な被ばくを防ぐ為、不要不急の立入りは控えていただくとともに、宿泊は決して行わないで下さい。」という観点からすると、先祖の供養も出来ないのが実情です。本当に健康が第一です。
  しかし「警戒区域」ではないので、車の通行には制限はありませんので、お墓参りの際は、火の取扱いに充分ご注意いただくようお願い致します。

  避難になってから、飯舘村では痛ましい「交通死亡事故」や「落雷による建物火災」などが起きています。
  これから秋にかけて、田畑の荒れた雑草などがそのまま枯れた状態になり、山火事など起きてしまっては大変です。
  くれぐれも、タバコの投げ捨て、ゴミももちろんですが、決して捨てないで下さい。

  本当に荒れ果てた農地を見ると悲しいです。やはり、手入れ・管理された農地や道路、家の周りなど…毎日の積み重ねなんですね。住民がいなくなってしまい、飯舘村は昔の自然の姿に帰り始めています。
  夏休みの頃は、毎日のように明け方早くから草刈り機の音が響き渡っていましたが、みんな仕事前、朝飯前の草刈りだったのです。日中~夕方では日差しが照りつけ、汗が滝のように流れ、ハチや蛇もたくさん出没します。
  そんな夏らしい光景も音も今年は聞こえません。セミだけが寂しそうに鳴いています。

  相双地方(福島県浜通りの北側)の子供達の夏休みは、外出が制限されており、虫取りや釣りに出かけたり、庭でのプールやバーベキュー、花火、流しそうめん、スイカ割り(うちだけ?)ができない、蛍も見に行けない、田舎の夏の風物詩が悲しいほど思い出になっています。
  「緊急時避難区域」が解除になるという事で、浜通りへ戻られる方もいらっしゃると思います。
海側の道路沿いは通行できる所もありますが、津波などのガレキ処理がまだ手付かずで、細かい廃材やガラスの破片等ありますので、車での立ち入りは充分ご注意願います。本当に現実に起こったのか?と愕然とする、凄まじい光景です。

  そんな中、少しだけ希望が持てるニュースもあります。
「村民の内部被ばく調査結果」で「セシウム134及び137による内部被ばくについて、合計しても1マイクロシーベルト未満」と結果が出ており、相当に低いと評価できると発表されました。ホールボディカウンター検査はまだまだこれから沢山の方が受診しますが、一生涯の検診を望みます。

▼5月まで移住していた方からの手紙【7月21日(木)】
村の動向、見通しは少しは見えているのでしょうか
こどもたちは夏休みはあれこれ少し楽しい企画とかあるようですが、ここまで時がすぎ、こどもたちの様子はどうですか
二学期以降も川俣町での間借りの学校生活は続くのでしょうか
生活の場所と学校が離れての通学等こどもたちも慣れない生活、不安定な生活、この先も続くのですね
住まいもばらばら、みんなをつなぐ支えになるものがあるといいのですが、みんなでこの子たちを守っていかなくてはなりませんね
村の人たちはこれからも大変ですね
今はただ遠くから案じているばかりです
暑くなります
生活が変わります
今を考え、明日を考えしっかり生きていかねばとおもっています
とくに3.11からは、”飯舘村のいま” が、すべての原点に立ち返らせてくれます。
飯舘村と出会うことがなかったら、3.11からのことこんなに真剣に深く考え想うことはなかったとおもいます。
ここに原点があると、生き直すスタート地点、時間をもらったような気がしています。
飯舘村の地に住むことはかなわない現実にあっても、飯舘村はやはり私たちのこころのよりどころとなっています。

▼東日本大震災から4ヶ月【7月11日(月)】
 7月11日 毎月11日が過ぎるたび、あの日の寒い、すさまじい地震の恐怖を思い出してしまいます。
そしてまた昨日も、「津波情報」に怯える一日になってしまいました。
いったい、いつになったら、余震が治まるのでしょうか?
原発災害でも、地震が来るたびにまた遠くへの避難先を心配してしまいます。

 一次避難所での飯舘村民の生活状況も聞こえてきます。
仮設住宅へ行った方は、異臭や騒音等で具合の悪くなる方もいたり、農作業が出来ないストレスで認知の心配もあるそうです。
これからの猛暑・酷暑も凌げるのでしょうか?

 いつもの小鳥がさえずる清清しい朝の空気や、広々とした庭や敷地に囲まれながら、清らかな水と土を触って、毎日が癒しのような自然と一緒に生活してきた村民。
本当に心労、心痛も重なり、またいつ戻れるのか?という将来の見えない不安な毎日をどう乗り越えていくのか?
やはりコミュニティー(地域社会)をなくしてはいけないと思います。
仮設住宅はある程度、地域ごとにまとまって生活できるという配慮もあり、人と人が支えあいながら生活していく事が本当に大事な事だとわかりました。
避難で別々の生活になってしまった家族も、今回ほど「強い家族の絆」を再確認したと思います。

これからの飯舘村の為、日本の為に、また子供達の未来のために、するべき事は何か?一人一人が考えながら生きていく、そんな毎日です。

▼放射線量のご報告【7月4日(月)】

文部科学省のホームページより抜粋したデータで作成しました。
詳しいデータなどは下記PDFを御覧ください

▼放射線量データ
飯舘村内放射線量23.3.15~[PDF]【こちら】

▼移住者の情報【6月16日(木)】
 当組合では、3.11東日本大震災のあと、飯舘村へ移住された方々からの元気な声や、メールを頂きました。

  現在は避難されておりますが、皆さんの飯舘村への移住の想いは本当に切実です。その一部をご紹介します。

「飯舘村での農業が出来ないと決まってから、他県へ田畑を借りて農業を再開しています。また一からやり直しですが、頑張ります!」

「飯舘村以外の移住は考えられないので、どこへ行けばいいのか困っている。」

「放射能が見えないので、飯舘村は何も変わっていないようですね。」

「これからの季節が、緑豊かな高原地帯の自然を味わえるのに、本当にがっかりです。」

「また、飯舘村へ戻ってきたいです。」

等など、第2の人生を飯舘村で送っていた方々の「夢」や「生活」も全て奪われてしまいました。

ほとんどが、自給自足の農業を目指しており、本当に言葉もありません。「農林水産省」を始め、福島県や飯舘村では、様々な「放射能の土壌汚染除去」の技術の実証実験等を行っています。

一日でも早く対応して頂きたい問題です。

▽今年4月に移住が決まっていた貸家の庭

▽「ドングリの植樹2年目」今年も植樹の予定でした。
30年後は、全て清らかな森になるでしょうか?

▽遊休農地ではなく玉葱畑です。
今年から「農作業風景も掲載する予定でした。

▼組合情報 :不動産情報をお寄せ下さい【6月3日(金)】
 現在、飯舘村では一次避難・二次避難の確保に努めていますが、仕事や学校に近い貸家などが不足しているようです。

  5/31時点で避難先が確定している方4,750人(対象人数6,177人約77%) 当組合の提携している不動産会社(南相馬市)でも、南相馬市原町区、鹿島区、相馬市の方まで空いている所はないようです。

「賃貸情報」をお寄せ下さい。
お待ちしております。

▼あれから2ヶ月【5月11日(水)】
今朝早く、また携帯電話の「緊急地震速報」が鳴りました。
毎月11日は地震が発生する日なのか?と思いながら携帯を覘くと、福島県沖でしたが、揺れは感じませんでした。
しかしながら、本当にあの時の悪夢から抜け出せないようです。
私(職員)の携帯電話は残念ながら途中で故障し、過去の履歴が消えましたが、何百通に亘る「緊急地震速報」は、命綱であり、しかし出来れば「速報」は来ない方が有難いですね。

この2ヶ月の中で、「移住相談」業務を委託し、どうなることか?と心配でしたが、沢山の心温まる励ましの言葉や、有難い受入れ情報など、本当に「人との繋がり」が感じられました。
皆様、本当に有難うございます。

今週から、福島県飯舘村は優先順位での「計画的一次避難」が始まります。
すでに自主避難している戸数が約1割、今後自主避難する見通しが約3割で、残る6割が完全に避難できるのはいつになるのか?
最近の報道でも、多くの皆さんが様々な想いで心配されています。
ですが、環境放射能の線量も、飯舘村役場前で一時は2.99マイクロシーベルトまで下がってきました。

「がんばろう!!飯舘村」

当組合でも「仮設事務所への移転」の話がありますが、しばらくは飯舘村で頑張って営業させて頂きますので、何でもご相談下さい。

▼大きなお世話志隊!のその後【4月26日(火)】
「ホットなニュース」が舞い込んできました。

昨年実施された、「大きなお世話志隊!」のその後・・・
なんと、来月入籍するカップルがいたのです。
飯舘村がこんな状況ですが、一緒に避難し、共に困難を乗り越えていける理想の相手に巡りあえたのです。
本当に朗報を聞いてうれしかったです。
その他にもちらほら、良い噂もあり、「婚活事業」は成功したようでホットしました。

▼大震災から1カ月が経ちました【4月12日(火)】
東北地方太平洋沖地震におきまして亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。
1日も早い復興を切にお祈り申し上げます

日本観測上、最大の大地震から早1カ月が経ちました。
村も経済が回復し始め、ひと安心と思った矢先の「計画避難」の報道・・・
そして昨夜4/11と4/7の震度6もの余震…まだまだ気が抜けない状況です。
しかし、私達は遺された命を大切にし、前を向いて生きていかなければなりません。

被災された皆様の所では桜は咲いたでしょうか?
飯舘村は例年4月中旬~標高200m地域から順に標高600mまで5月上旬にわたり、桜の開花が見られます。
昨年は春先の低温と4月下旬の積雪で蕾のまま散ってしまった梅や桜の木など、今年はきれいに咲く事を祈ります。
放射能で汚染されてしまった福島県浜通りには桜の名所が沢山ありました。
今年は立入禁止区域で見に行けないのがとても残念でなりません。
例え汚染されていても、桜は満開に咲いている事でしょう。
また、夏には海水浴シーズンで多くの人で賑わっていた浜辺が一瞬にして消えてしまいました。今も道路が寸断され、海岸に近づく事もできません。
それでも少しずつ復興するために多くの人の手で復旧作業が行われています。

「がんばろう!福島県 浜通り地方!!」

「がんばろう!福島県いいたてむら!!」

福島県・飯舘村も「澄んだ青空・星空」と「高原のおいしい水」が、放射能汚染されてしまいました。
春~秋にかけて山菜採りや、涼しい夏のキャンプシーズンで賑わうはずの飯舘村。
時間はかかりますが、自然は必ず浄化して綺麗になっていくでしょう。
私達は必ず元通りになることを願っています。
飯舘村にももうすぐ春がやってきます。

これからも、いいたて村までい企業組合では「移住相談」を継続していきます。
また、「安全・安心な地産地消の農業」を必ず復活させます。

今回の災害で、何が大切か、何を一番優先するのか、とても大事な事が判りました。

「昔ながらの生活」でした。
薪・炭・釜戸・井戸水・保存食など、昔の人達が残してくれた生活の知恵が、暗闇でも、水道が出なくても、今の私達にも引き継がれてきた生活の工夫があり、生き延びていくことができました。

こんなにも「電気・ガス・水道」に頼りきりの生活になっていた、戦後に生きる私達ですが、親や年寄りに沢山の生きる道を教えて頂きました。
生鮮食品が途絶えた時、備蓄米と味噌、越冬超えの保存していた野菜や漬け物がありました。また、地区や班(組)ごとに団結してまとまり、配給も不足しているところに分けてあげたり等の光景も見れました。本当に「地域の絆」が大切でした。

「田舎って本当に有難いところだと思いました。」

最初の「自主避難」の誘導があっても年寄りたちは避難せず、お店が開いてなくても自分たちの蓄えで食べていけたのです。彼岸前の寒さも炭や昔の囲炉裏を出して暖を取り、知恵を出し合いました。

今は自給自足での農業が出来ませんが、またゼロから始めましょう。
飯舘村の本当の意味での「春」が、「夜明け」が早く訪れる事を祈ります。

▼いいたて村までい企業組合より【3月28日(月)】
地震により当事務所も3/12~26まで下記理由により誠に勝手ながら事務所を閉所しておりました。

3/11~13まで 電気・電話・携帯不通、水道断水(停電の影響)など
3/14~16まで 電話・インターネット不通
3/16~ 屋内退避のため自宅待機命令
3/18~ 自主避難・集団避難指示
3/25~ 東京電力(株)福島第一原子力発電所から半径20km圏内に避難指示、半径20km以上30km圏内の住民(飯舘村蕨平地区)に自主避難発令中

全国的に福島県・飯舘村のニュースが流れ、不安と不信の毎日ですが、飯舘村民はまだ飯舘村に居ります。少しずつですが、復興に向けて活動しています。

今後とも、福島県・飯舘村を応援してください。
 
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